HISTORY
since1903
日本の大創業時代
アメリカのノースカロライナ州でライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した1903(明治36)年、大阪の船場で宇都宮製作は医療用品やゴム製品を扱う宇都宮商店として創業しました。当時の日本は、開国によって流れ込み始めた西洋文明の輸入が本格化し、産業革命が進みつつありましたが、まだ欧米からの輸入品に対抗できるほどに国内産業は成長していませんでした。アジア圏の国々を植民地しようとする欧米列強から日本を守るため、富国強兵を推し進めることで肩を並べようとする明治政府は、軍事力によって国力を強化しようとする帝国主義へと次第に傾倒していき、1894(明治27)年の日清戦争、1904(明治37)年の日露戦争で連勝することで、国際的な地位を築き、結果的に国内産業の発展が急速に進むことになったのです。この時代の流れは、江戸時代から続く商業の街大阪の中枢であった船場の商家にも大きな変革の波となって現れ、現在、日本を代表する大企業が数多く創業した時代でもあったのです。
創業・初代社長(1903年~1943年)宇都宮 宇作
- 1882(明治15)年10月10日、
愛媛県東宇和郡岩城村(現 西予市宇和町)に生まれる。 - 1903(明治36)年、宇都宮商店(現 宇都宮製作株式会社)を開業。
- 1932(昭和7)年、紺綬褒章受章
- 1935(昭和10)年、大阪医療品卸商組合初代組合長
- 1950(昭和25)年4月8日没(享年67歳)
宇都宮宇作の生涯
医療用品の大半を輸入に頼っていた時代に、自力での製品開発に執念を燃やす
1882(明治15)年10月10日、愛媛県東宇和郡岩城村(現:西予市宇和町)に宇都宮儀十郎の四男として生まれ、石城小学校卒業後、1895(明治28)年に単身上阪し、船場の医療器商「三好商店」へ丁稚として入店。1902(明治35)年に独立を認められ、「三好商店」を円満退社した後、1903(明治36)年に、船場の東区平野町5丁目(現:中央区淡路町4丁目) で「宇都宮商店」を開業。宇作20歳の年でした。
当初は聴診器の製造を目指していましたが、医療用品の大半をヨーロッパからの輸入に頼っていた時代、自力での開発は至難の業だったようで、商いの中心は医療用ゴム製品の取扱いでした。宇作が特に力を入れていた商品が「水枕」で、当時としては画期的な「コマ付き締め木」を自ら開発し、販売したことで「宇都宮商店」は広く知られるようになりました。現在の水枕にもこの発明は用いられています。
1943(昭和18)年に社長を退任するまでの40年間、取得した特許や実用新案の数々は、常に研究開発に明け暮れてきた宇作の商いに対する志であったと言えます。
1950(昭和25)年4月8日、宇都宮宇作はその67年の生涯を閉じました。
宇作の丁稚時代
読み書きそろばんは自学、外国語は「トイレの中」で学んだ
宇作が少年期を過ごした時代は、小学校を卒業すると、伝手を辿って、丁稚奉公に出ることが一般的でした。当時の丁稚は、現在の就職とはかなり異なり、雇われた店に無給で住込み、もらえるのは月々僅かな小遣いだけで、午前6時の起床から午後10時の就寝まで、掃除や使い走りなどの雑用をこなし、正月と祭りの日以外は休みなしといった厳しいものでした。こうした日々の中で実践的に商売を学び、丁稚(見習い)から手代(店員)に、そして番頭(幹部)や独立(暖簾分け)へと商人は育っていきます。また、そんな日々の中で、商いに必要な読み書きそろばんを自学し、さらに外国語も身に付けなければ、輸入品を扱う医療機器商にはなれませんでした。宇作は後年家族に「厠(トイレ)の中で本を読んだ」と語っていたそうです。
宇都宮宇作の人柄
従業員は必ず「さん」付けで呼び、若手を直接叱ることはなかった
宇都宮宇作は、堅実で万事控え目、淡々とした生活態度を崩すことはなかったと言われていますが、声は比較的甲高く、話し方がゆっくりと静かなので聞き取りにくいことすらあったそうです。また、写真が苦手ではにかみ屋だった反面、新しいもの好きで、大正14年6月に大阪放送局ができるや否やラジオを購入したり、蓄音機、洗濯機、冷蔵庫、電気掃除機、電気ストーブなどの輸入品を、本業の伝手を利用して買っていたそうです。
従業員に対しての気遣いも相当で、始業時間前に自分が出社しては従業員に気を遣わせると、当時始業時間だった午前8時を1分過ぎてから出社したり、従業員は必ず「さん」付けで呼び、若い従業員を直接叱ることはせず、必ず年長の社員を呼んで注意をしていたそうです。
宇都宮商法
勤倹貯蓄を大切にした、宇都宮宇作の人生観がにじむ教訓
- 買ってくれる人だけでなく、売ってくれる人もお客さんだ
- 力以上の商売はするな
- 売上高はだいたい年間平均するようにせよ
- 仮に商売が少々減っても経費が合うように心がけよ
- 来月の支払いは今月用意せよ
これは、宇都宮宇作が常々従業員に説いていた商売のやり方です。四国の寒村に生まれた宇作にとっての人生観がにじむ教訓だといえます。「遊ぶのもいいが収入を考えて遊ぶように」「家を買う金の半分を貯金しなさい。そうすればあとは面倒見てあげよう」と、勤倹貯蓄を説いていたそうです。
宇都宮商店の寄宿生活
若者の向上心を大切にし、夜学に通うことを奨励し、月謝も払っていた
当時の宇都宮商店は全寮制で、独身者は通勤を許されませんでした。しかも入店後4年間は帰省も許さなかったようです。かなり厳しいようですが、商人としての独立心を養わせるための宇作の親心だったのでしょう。宇作は、自分が独学の勉強で苦しんだ経験からか、若い店員の向学心を大切にしていました。夜学に通うことを奨励し、月謝も店から支払っていたようです。
また、寄宿舎には勉強室があり、一人に一つ机を用意し、自由に学習や読書ができるようにしていました。食糧事情が悪くなった昭和初期には、寄宿舎内にご飯食べ放題の食堂を設け、独身店員は三食、妻帯者の昼食もここで賄い従業員の健康を気遣っていました。健康と言えば、宇都宮商店には、「歩こう会」というクラブがあり、新入店員はすべて入会させられました。会では月に一度のハイキングが行われ、その時の外出用の服、ハンチング帽、革靴の一式が支給されます。また、夏には芦屋に海の家を設け、三交代制で週に2日ずつ海水浴へ行かせたそうです。
自ら厳しい丁稚奉公を体験した宇作には、若い店員たちの生活を楽しく充実したものにすることも大切な仕事だったのでしょう。
生まれ故郷に2つの石碑
宇都宮宇作の生まれ故郷である愛媛県西予市宇和町は、八幡浜市、大洲市と宇和島市との間に位置し、南予地域の交通の要となる穀倉地帯です。九州を眼下に臨む笠置峠には、4世紀前半の前方後円墳である笠置峠古墳があり、日本で最初の女医楠本イネが二宮敬作からオランダ語と西洋医学を学んだ土地でもあります。
宇和島周辺には宇都宮姓が今なお多く見られます。平安時代末期から鎌倉時代前期、宇都宮郷(栃木県宇都宮市)出身の伊予国の守護宇都宮頼綱(1172-1259)がこの地で勢力を伸ばしたことが、宇和島の宇都宮家の源流であると推測されます。
宇和町の風景を収めた<野辺風韻>という美しい写真集に、宇都宮宇作個人に関しても関連する記録が残っています。「稲木の隊列」と名付けられた風景写真に映っている辺りが、宇都宮宇作の生家があった場所であると思われます。
驚くべきはこの宇和町に、宇作の偉業を称える石碑が2つも現存していることです。
その一つは、宇和町の石城小学校にあります。1931年に、石城小学校の講堂新築費用を全額、並びに育英資金として多額の寄付をした功績を称え、今なお同校に感謝の碑が残っています。
また、1943年に扇形池の要位置付近の決壊により池の水が氾濫する水害があり、池の鯉が辺り一面に流れてくる程の惨状(水田などは当然使い物になりません)となりましたが、大阪にいた宇作が駆けつけ全財産を投げ打つ覚悟で治水にあたりました。当時は戦争中で男手がなく、女性を中心に老人や子どもが復旧活動を行っていた最中とあって、地元の方は感謝の気持ちをこめて、その池のすぐ傍にも、碑を建ててくださったということです。
1903
明治36年
「宇都宮商店」の開業
宇都宮宇作が大阪・船場の東区平野町5丁目(現:中央区淡路町4丁目)に医療用品・ゴム製品を取り扱う「宇都宮商店」を開業しました。これが宇都宮製作株式会社の創業となります。
1910
明治43年
宇都宮宇作が
「コマ付き締め木」を開発
日本で最初に国産化された医療用ゴム製品は水枕でした。しかし、当時の水枕は、水を入れた後、口の部分を木の締め具で挟んで固定していたため、水が漏れやすいという重大な課題があり、普及・量産の足枷となっていました。
この課題の克服に取り組んだ宇都宮宇作は、試行錯誤を重ねた末、締め具の先端にコマを付け、従来よりも簡単かつ強力に口部を圧着できる「コマ付き締め木」を開発しました。この発明は、後に材質を金属に替え「コマ付き締め金」とすると瞬く間に広まり、現在でも水枕に用いられています。
1911
明治44年
ダンロップ極東と
医療用ゴム製品の
総代理店
として取引開始
海外への生産拠点拡大を進めていた英国ダンロップ社は、1909(明治42)年に明治政府の外資導入策に乗じて日本へ進出し、ダンロップ極東社を設立。神戸市脇浜に敷地5,000坪(約1万6,000㎡)煉瓦造り2階建ての大工場を建設しました。当初は自転車タイヤの製造のみであったが、工業用や医療用ゴムの分野に進出し、激しい争奪戦の末、1911(明治44)年に医療用ゴム製品の総代理店に宇都宮商店が選ばれました。当時の日本のゴム工業は、揮発油に生ゴムを溶かして加工したような原始的な製品が出回っていた状態で、先進であったダンロップ製品への崇敬は非常に高く、総代理店となったことで、宇都宮商店は医療用品業界での信用を確立し、業績も上昇していきました。
1918
大正7年
現在の水枕の原型となる
「ライト水枕」を発売
ダンロップ社の日本進出により活性化した日本のゴム工業界ですが、そのほとんどは中小企業でした。問屋が資金や資材を供給して製品を中小業者が製造するという問屋システムができたのもこの頃です。
宇都宮商店も多くの国産製品を扱っていましたが、1918(大正7)年に日本のゴム工業界の記念碑的な商品となった「ライト水枕」を発売しました。「ライト水枕」は、浪華ゴムによる純ゴムの広口水枕に、宇都宮宇作の発明した「コマ付き締め金」を用いた、現在の水枕の原形となる商品でした。
1919
大正8年
寒川信三が単身ドイツに渡り、
体温計を含む医療器類の輸入開始
第一次世界大戦休戦直後の1919(大正8)年に、当時、宇都宮商店のエージェントのような存在であった寒川信三は、「外国にあって日本にないもの」を求めて、単身ドイツへ。そこで買い付けてきたのが体温計でした。この体温計を宇都宮商店では「ライト体温計」として発売。全国の卸先にホウロウの看板を配布するなど徹底的な宣伝を行い、販売規模を大きく拡大し、経営基盤を確固たるものにしました。
寒川信三 さむかわ のぶぞう
寒川信三は、1878(明治11)年頃、三重県相可の地主の三男として生まれました。青年期に長男を頼ってアメリカに渡った寒川は、長男の勤める貿易商・森村組(現:ノリ夕ケカンパニーリミテド)で、陶器などの骨董品や日本雑貨を販売する店で働き、貿易の面白さを知りました。帰国後、ダンロップの日本進出の情報を耳にした寒川は、独自でダンロップ製品を手掛けようとしていた時に、既に一応の販路を持つ宇都宮商店と出会ったのです。その後、国際感覚豊かな寒川は宇都宮商店のエージェントとして、海外企業との折衝を一手に引き受け、宇都宮商店の急成長に大きく貢献していきます。
ダンロップ製品及びドイツからの輸入品の取引高に応じた歩合制であった寒川の報酬は、やがて宇都宮宇作社長の収入を上回るようになり、心苦しく思った寒川からの申し出で、宇都宮商店へ入店したのは大正後期だったとのことです。
1920
大正9年
「鬼束式聴診器」(鬼束益三医師
考案)の
製造販売を開始
第一次世界大戦が終戦した1918(大正7)年から1920(大正9)年に掛けて、世界的にスペイン風邪が大流行。戦後不況の最中であったにもかかわらず、医療用品の需要は不況とは無縁に高まり続けていました。
1920(大正9)年に宇都宮商店は、大阪・内本町の医師であった鬼束益三氏が考案した「鬼束式聴診器」の製造販売を開始しました。従来の双耳型の聴診器に独得の考案を施したこの聴診器は、使いやすさと性能の高さで広く国内に普及し、次いで開発した、血液を透視できる「鬼束式注射針」と共に、宇都宮商店の主力商品となりました。
「オニツカ」の文字を組み合わせた登録商標を付した、これらのブランド製品を独占的に取り扱ったことは、宇都宮商店のその後の発展に大きく寄与することになりました。
1925
大正14年
本社を平野町から
淡路町1丁目に移転
戦後不況下の日本において、医療用品の取り扱いが功を奏して業績を伸ばした宇都宮商店は、従業員の数も増え平野町の店舗では手狭になったため、1925(大正14)年に東区淡路町1丁目17番地(現在の中央区淡路町l丁目5番地)に土地付き店舗を購入して移転し、創業の地である平野町の家屋は独身社員のための寄宿舎に充てられました。なお、後に平野町の寄宿舎が手狭になったため、内淡路町の社長宅の隣地を買い取り移転しています。内淡路町の社長宅は借家でしたが、店舗や寄宿舎は購入していることから、倹約家であった宇都宮宇作の人生観が表れています。
淡路町の宇都宮商店
当時の淡路町は、薬種屋をはじめとした医療関係の商店や病院が多く、船場らしい活気の中にも落ち着きのある風情がありました。宇都宮商店は、淡路町の中央を東西に横切る淡路町通の北側で、通りに面した間口5間(約9メートル)奥行20間(約36メートル)の、船場では中規模の店舗でした。
玄関を入ると左手にハンダイ(品物や伝票の出し入れをする台)があり、右側は奥まで通じる土間になっており、商品を揃える「仕組み場」とその奥に荷造り場と支配人室が並んでいました。建物は表部分が2階建て、荷造り場辺りから3階建てになっており、2階と3階は倉庫で、幅1.5メートル奥行1メートルほどの荷物専用の電動式小型昇降機で商品を荷造り場に降ろしていたようです。奥には中庭と食堂、社長室、会議室があり、顕微鏡などの倉庫と体温計の検査を行う検査所もありました。
船場の商家では、主人家族が居住することが一般的でしたが、宇都宮商店では、社長は内淡路町の借家に住まい、店舗に通勤していました。
1927
昭和2年
中学卒業者の採用を開始し、
販売網を拡大
第一次世界大戦の終結より続く世界的な不況の中、昭和時代が幕を開けました。その不況下でも堅調に成長を続けた医療品業界に、いち早く近代化の波が訪れてきました。従来の卸商が地方の薬問屋にカタログを送り、注文を受ける通信販売型の商いから、地方へ出張し拡販や商談を行う出張セールス型の商いに推移し営業力による競争が激化してきたため、人材の確保・育成が急務となってきたのです。宇都宮商店も商品開発や営業活動で指導的な仕事のできる人材を求めて、1927(昭和2)年に、当時高学歴者であった中学卒業者の採用を開始し、第一期として4名を採用しました。当時の初任給40円は、銀行員の初任給よりも高給であったと言われています。
こうして得た優秀な人材と経験豊かな古参の社員が出張営業に注力することで販売網は、東は中部、北陸を経て東京まで、西は近畿・中国・四国・九州と西日本一帯へと拡がり、さらに台湾、朝鮮半島、中国と海外へも拡大することになりました。
1928
昭和3年
ダンロップ極東と
正式に
総代理店契約を締結し、
シームレス水枕を販売
1926(昭和元)年から翌年にかけて東京を中心に流行性感冒が大流行しました。この時に盛んに買い求められたのが水枕です。草創期より水枕を取り扱い、当時、最高級品であったダンロップ製品の代理店であった宇都宮商店もこの機に積極的な販売を行いました。
1928(昭和3)年に創業(日本進出)20年を迎えたダンロップ極東社は、東京と大阪に事務所を開設し、1923(大正12)年に開発したシームレス水枕(商品名:ダンロップ枕)等のゴム製品の販売を強化するため、正式に宇都宮商店と総代理店契約を結びました。これによって宇都宮商店は、水枕のみではなく、ダンロップ極東社製の湯たんぽ、円座、手袋、ゴム管等の医療用ゴム製品のほぼすべてを対象とした総代理店となったのです。
1932
昭和7年
宇都宮宇作が紺綬褒章を受章
初代社長の宇都宮宇作は社会貢献のための寄付活動に熱心でした。特に小学校等へは色々と寄付しており、知り合いの業者に依頼して直径1メートルもある大きな地球儀を大量に作り、大阪市内の小学校等に寄付したこともあったようです。
1931(昭和6)年には、母校である愛媛県東宇和郡石城尋常高等小学校の講堂新築費用を全額、および育英資金として多額の寄付をしたそうです。残念ながら講堂は老朽化のため既に取り壊されていますが、その功績を称えた感謝の碑が、今なお石城小学校には残っています。こういった社会貢献活動によって、宇都宮宇作は1932(昭和7)年に紺綬褒章を受章しました。
1933
昭和8年
社員の服装を和装から洋装に変更
当時は、ドイツやフランス、アメリカ等との輸入に関する折衝は、すべてエージェントである寒川信三氏が行っていましたが、宇都宮商店でもダンロップ極東社の社員や外国人と面談する機会が増えてきました。商品名や伝票も英語ですし、商品を納品してくる専属の運送業者も英語を話すような環境でしたので、社員も近くのYMCAへ夜学で通い英語を学んでいました。そんな最中の1933(昭和8)年に、突如宇都宮商店はそれまでの和装を止め、洋服を神戸の著名な洋服店で誂え、洋装に切り替えました。
1935
昭和10年
宇都宮宇作が
「大阪医療品卸商組合」の
初代組合長に就任
1904(明治37)年から翌年にかけての日露戦争の特需に端を発し、日本の医療品業界は、急増する需要に支えられ確固とした市場を形成しました。しかし、元々さまざまな業種から参入した雑多な業界ですから、取引上の多岐にわたる課題に対処するべく生まれた業界組織も、ゴム同業組合の医療ゴム部会といった単なる親睦団体に過ぎず、タイヤやゴム靴、ゴム玩具を扱う店が「ゴム」という共通項で集まっている集団でしかないため、結束によるメリットを生み出すなどとは到底いたりません。競争力のある大手卸商は問題として捉えていませんでしたので、中小の事業者が集まり「大阪医療器ゴム同志会」を立ち上げるため、宇都宮宇作にその代表者への就任を要請してきたのです。
宇都宮商店は卸商でありながらメーカーでもあったため、組合結成を求める中小業者は得意先でもあったため無下にできず、生来、争いを好まない性格の宇都宮宇作でしたが、大手も含めて大阪の問屋全部をまとめるのならばと、条件を付けた上で自ら大手問屋の説得に当たり、何とか同意を取り付けて回ったそうです。
1935(昭和10)年7月、苦心の末、創立総会に漕ぎ着けた組合は、「大阪医療品卸商組合」と称し、その初代組合長に宇都宮宇作が就任しました。
法人化により「株式会社宇都宮商店」を設立
大阪医療品卸商組合が結成され、宇都宮宇作が初代組合長に就任した1935(昭和10)年の12月9日に宇都宮商店は法人化し、「株式会社宇都宮商店」となりました。
組合の代表になったことが一つの切っ掛けではありますが、経営規模が拡大し、自己資金のみでは発展のスピードに追いついていけなくなったことが大きな理由でした。代表者は宇都宮宇作、取締役は杉岡籐右衛門と寒川信三で、資本金は25万円。20歳の宇都宮宇作が平野町に店を構えて30年余り、宇都宮商店は名実ともに大手の老舗卸商と肩を並べる医療品業界のリーディングカンパニーになったのです。
経 歴
- ⑴ 明治35年8月より大阪市東区平野町5丁目40番地に於いて
医療器械(体温計を含む)及びゴム製品販売業を開始す - ⑵ 大正13年大阪府権度の主催したる度量衡器及び計量器に関する講習を受講
- ⑶ 大正10年6月22日付けを以て計量器(温度計) 販売の免許取得
- ⑷ 大正10年大阪計量器同業組合創立委員となり 組合設立後評議員に当選
- ⑸ 大正11年2月28日付けを以て計量器(浮秤)販売の免許を取得
- ⑹ 大正14年1月営業所を大阪市東区淡路町1丁目17番地に移転
- ⑺ 大正14年6月27日付けを以て度量衡器販売の免許
- ⑻ 昭和7年7月大阪計量器同業組合副組長に当選
- (「履歴書」原文ママ)
法人化した直後の12月16日に改めて「度量衡器販売営業免許願」を大阪府に提出しましたが、その時の「履歴書」に経歴が記されています。
1940
昭和15年
ダンロップ医療ゴム販売を吸収合併
1931(昭和6)年の満州事変に端を発して、日本は後に言われる15年戦争に突入しています。1932(昭和7)年の五・一五事件、1936(昭和11)年の二・二六事件によって強大化した軍部の発言力の前に、日本の産業は軍需資材が優先され、医療用ゴム製品も一部は準軍需品として認められるも、資材の調達に困窮する状態になってきました。1938(昭和13)年に「国家総動員法」が交付されると、すべての経済活動は政府の統制下となり、ゴム製品の原料である生ゴムは配給制になりました。
1937(昭和12)年にダンロップ護謨(極東)から社名変更した日本ダンロップ株式会社は、生ゴムの入手量が半減し、製造販売は許されていたものの価格規制を受けたため、元来、高級品であったダンロップ製品の販売は事実上困難になってきました。さらに日英関係が暗転し始めたことによって英米人排斥運動が高まり、1940(昭和15)年には同社の社員は次々と帰国してしまいました。同社の医療用ゴムを販売する株式会社ダンロップ医療ゴム販売は、この強烈な逆風の中でダンロップ製品の生き残りを図る窮余の策として宇都宮商店との合併を申し出たのです。
1940(昭和15)年10月15日、株式会社宇都宮商店は臨時株主総会を開催し、株式会社ダンロップ医療ゴム販売との合併を承認可決しました。
その後、1941(昭和16)年に日本が第二次世界大戦に参戦すると、日本ダンロップ社はいよいよ窮地に陥り、1943(昭和18)年に「中央ゴム工業株式会社」への社名変更を余儀なくされ、一斉を風靡したダンロップの名は消滅したのです。
1943
昭和18年
宇都宮宇作の社長退任
1911(明治44)年の取引開始以来、宇都宮商店の成長を大きく支えてきたダンロップの消滅は、宇都宮宇作にとっても大きな出来事であったでしょう。開戦当初は連戦連勝で欧米列強の植民地であった東南アジアを掌握し、一時的に資源確保ができた日本ですが、戦局の悪化とともに輸送路は閉ざされ、民需軍需とも原材料の不足は深刻なものとなりました。開戦から1年が過ぎた1943(昭和18)年には「ゴム統制会」が発足し、国策に沿うよう原材料の供給と生産を制限するようになり、民需品の製造・販売は成り立たなくなりました。大きな時代の動きの中で、60歳を超えたばかりの宇都宮宇作は自ら経営の一線を退く決断を行ったのです。
西江 弁次郎
西江弁次郎の社長就任
創業者である宇都宮宇作の退任を受けて、宇都宮商店の最古参社員であった西江弁次郎が第二代社長に抜擢されました。戦時下統制の現場で采配を振るっていた西江新社長は、人脈と統制関係の知識を駆使し、軍部に対する営業活動を懸命に行いました。その結果、宇都宮商店は、全国の海軍病院への医療用ゴム製品を一括納入することができるようになり、また陸・海軍省への衛生サックの納入も受注することができました。
「宇都宮製作株式会社」へ社名変更
当時の日本では、まだ「士農工商」の差別意識が残っており、「商人」や「商店」といった言葉は忌避される傾向がありました。そのため、軍部への納入業者となるには「宇都宮商店」という社名では難しいということで、社名を変えなければならなくなったのです。当時は軍需を得るため「商」の字の付いた会社が相次いで改称していましたので、さほど特別なことではありませんでしたが、創業来40年慣れ親しみ、思い入れの深い社名をこのような事情で変えなければならなかったことは、さぞ辛かったと思われます。
宇都宮商店は京都にシンネルブッシュを製造する工場を持っており、もともと半分はメーカーとみなされていたため、メーカーらしい社名にしようということになりましたが、卸商組合の組合長を務めた経緯もあり、実状とかけ離れないよう、現在の社名である「宇都宮製作株式会社」としたそうです。つまり当社の社名は、戦時下の難局を生き抜くために変更したものです。
宇都宮宇作が私財をなげうち河内池の治水にあたる
宇都宮宇作が社長を退任した1943(昭和18)年に、郷里の愛媛県東宇和郡にある河内池が氾濫する水害があり、戦時中で男手もなく復旧に難儀していたところ、大阪から宇都宮宇作が駆けつけ全財産を投げ打つ覚悟で治水にあたり、復興を支援したそうです。河内池の畔には、支援を称える感謝の碑が建てられています。
1945
昭和20年
大阪大空襲により社屋が焼失
1945(昭和20)年に入ると、もはや戦局の帰趨は決していたが、狂信的な軍部の徹底抗戦の叫びの中、米国による日本本土への空襲は激しさを増してきました。前年までは東京や名古屋の航空機工場を爆撃目標としていたため大阪は無事でしたが、年が変わると大阪や神戸方面も攻撃されるようになり、3月9日の東京大空襲、12日の名古屋大空襲の後、13日の深夜、約3時間半におよぶ大阪大空襲を受け、大阪の街は火の海と化したのです。この第一次大阪大空襲によって淡路町の宇都宮製作の店舗は焼失し、その後6月の第三次大空襲で内淡路町の独身寮も焼失してしまったのです。
一面の焼け野原となった淡路町ですが、奇跡的に向かいの市川病院が類焼を免れていたため、その一角を間借りすることができ、1945(昭和20)年8月15日の終戦を迎えました。
1946
昭和21年
「ライト体温計」を発売
敗戦後、焼け野原の中からの再出発となった宇都宮製作ですが、日本経済が混乱を極める中、医療品業界は予想以上に早い立ち直りを見せました。高まる医療品ゴム製品の需要に、次々と復員してきた社員が復帰したり、帰郷して開業したりと、宇都宮製作の復活は急速に進み、1946(昭和21)年に、国産ブランドとして業績を伸ばしていた「ライト体温計」の販売で、いち早く販売体制を整えることができました。
1947
昭和22年
工業用品部を発足し、工業用ゴム製品の発売を開始
当時は、医療用ゴム製品同様にゴム管やホース、パッキン等のゴム製品も原料不足に陥っていたため、宇都宮製作の営業社員は医療品の営業活動の傍ら、これらのゴム製品の原料供給を求められることも多かったようです。この需要に対して、1947(昭和22)年に宇都宮製作は「工業用品部」を発足し、医療用ゴム製品の枠から出た製品の取り扱いを開始しました。
1949
昭和24年
ダンロップの日本総代理店に復帰
1943(昭和18)年に「中央ゴム工業株式会社」と社名変更したまま終戦を迎えていた日本ダンロップ社は、1949(昭和24)年に経営、資産のすべてを英国ダンロップ社に返還され、「日本ダンロップ護謨株式会社」として復活しました。
これにより宇都宮製作の総代理店としての立場も復旧することになりました。
1950
昭和25年
宇都宮宇作逝去(享年67歳)
創業者である宇都宮宇作前社長は、1943(昭和18)年の社長退任後、芦屋に住まい、戦後は会社へ電車で通勤していましたが、経営は西江弁次郎社長に委ね、悠々自適の毎日を送っていました。1950(昭和25)年1月に、帰宅した宇都宮宇作は腹痛を訴え、そのまま寝込み、大阪大学の微生物研究所病院に入院したところ、胃ガンと診断されました。手術した時はすでに病状は進行しており、4月8日、治療や家族、社員の回復への祈りも空しく、67歳の生涯を閉じました。
1951
昭和26年
夏冬の需要期キャンペーンを開始
戦前からダンロップ水枕の販売促進については、積極的に行ってきましたが、1951(昭和26)年からは、夏冬の需要期に向けたキャンペーンを実施し、一定量の購入に対して景品を進呈するプレミアムキャンペーンを確立しました。また小売店向けのキャンペーンも併せて実施し、景品に加え、希望する小売店にはホウロウ製の吊り下げ看板を進呈したのですが、この看板が多くの小売店に使用され、キャンペーン後の販売促進の効果を高めたそうです。
1953
昭和28年
「赤線ビニール」を取り扱うことを
決定し、
化成品部を発足した
散水用のホースを供給していたユーザーから、ビニールシートを求められたことを切っ掛けに、柴田ゴム工業株式会社の「赤線ビニール」を取り扱うことを決定し、化成品部を発足しました。新しく発足した化成品部は、最初のユーザーが高知県の種苗会社であったことから、四国全域の種苗店、種苗会社に営業展開し農業用ビニールシートの需要を開拓。
その後、中国、九州へと営業網を拡げていきました。この「赤線ビニール」の売上は一時期非常に好調で、全社で3億8,000万円に達するほどでした。
1954
昭和29年
世界初の塩化ビニール製手袋
「ビニライト」を発売
日本の経済成長の原動力となった石油化学製品の開発競争に乗じた宇都宮製作は、「赤線ビニール」に続き、1954(昭和29)年に設立したばかりの尚和化工株式会社が世界で初めて開発した塩化ビニール製手袋「ビニライト」の取り扱いを開始しました。尚和化工株式会社は、塩ビ製万年筆インクチューブの開発に成功し、注目されていましたが、ビニール製手袋の販路についてまったくの初めてであったため、関東一社、関西一社に限定して販売委託したのですが、パートナーとして選んだ関西の一社が宇都宮製作だったのです。
1955
昭和30年
宇都宮宏が第3代社長に就任
(当時31歳)
1943(昭和18)年に創業者である宇都宮宇作から引き継ぎ、戦時下の統制期から戦後の動乱期を見事に乗り切った西江弁次郎が、1955(昭和30)年に社長を勇退し、宇都宮宏が第3代社長に就任しました。31歳の若さでしたが、経験と勘に頼ってきた旧来の商業に計数を用いた近代的な経営を持ち込むことで、新しい時代の扉を開こうとしました。
宇都宮 宏
売れ筋商品であった体温計を輸入品から帝国化成工業(のちの東芝化成工業)に製造委託して自社ブランドの国産品として販売。「ライト体温計」発売10周年の1957(昭和32)年には得意先の卸問屋を対象に販売体験談コンクールを実施し、小冊子にまとめて販売支援として配布する等、積極的な販売促進を展開しました。
1957
昭和32年
市川医院の向いに
新社屋を再建
1945(昭和20)年3月の戦災後、市川病院に間借りしたまま営業を続けていたのですが、1957(昭和32)年に真向かいの旧社屋跡に、地上3階地下1階、鉄骨造りの新社屋を建設し移転することができました。新社屋の1階は事務室・荷捌場・倉庫で、2階は事務室・経理室・倉庫・会議室の他に和室が2室、3階は寮(後に事務室)、地下室には書庫も設けられた近代的なビルでした。
1960
昭和35年
「クインボンネルバンド」を発売し、「クイン会」を発足
1960(昭和35)年発売した「クインボンネルバンド」が爆発的なヒット商品となりました。
「クインボンネルバンド」は、従来製品であった生理帯「クインバンド」に当時ブームであった化学繊維を用いた製品で、それまで主要取扱品ではなかった生理帯が、この製品の大ヒットにより、まさに一世を風靡する代表製品になったのです。
この「クインボンネルバンド」の発売を機に、同製品を取り扱う地方問屋の会として「クイン会」を結成し、販売促進に力を注ぎました。
高度経済成長と工業用品部の躍進
焼け野原と化した戦後の日本は、1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争の特需を契機として、1955(昭和30)年から1973(昭和48)年までの18年間、年平均10%以上という、めざましい経済成長を遂げました。これが世にいう高度経済成長期です。特に1964(昭和39)年の東京オリンピックや1970(昭和45)年の大阪万博による特需は、国民総生産(GNP)を世界第2位まで押し上げ、日本の戦後復興は「東洋の奇跡」と呼ばれるまでになりました。
この長期に亘る好景気を牽引したのは、東海道新幹線や東名高速道路等のインフラ整備にかかる大型公共投資でしたが、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の当時三種の神器と呼ばれた家電製品が一般家庭へ急速に普及したことも大きな要因だったようです。
一方、戦後間もなくの1947(昭和22)年に発足した宇都宮製作の工業用品部もこの機に基盤を確立し、取扱品の幅を拡げていました。再スタートをきった日本ダンロップ社の製品を足場に、松下電器産業、田辺製薬、武田薬品工業、ダイハツ等へゴム製品や加工部品を供給するようになり、特に家電製品の需要拡大によって発展した松下グループとの取り引きは、工業用品部の事業領域の拡大に大きく寄与したと言えます。また、1960(昭和35)年に取り引きを開始した岩谷産業株式会社の存在も販売活動を大きく進展させる原動力となり、後の営業展開の基盤となりました。工業用品部はまさに日本の高度経済成長に乗って大きく成長したと言えます。
1964
昭和39年
オリンピックに沸く東京へ
出張所を開設
戦後の再スタートから低迷を続けていた日本ダンロップ社は、1963(昭和38)年10月に経営権を英国ダンロップ社から住友電工へ移行することになりました。経営の多角化を目指す新経営陣にとっての課題は積極的営業展開による業績の早期回復でしたので、総代理店である宇都宮製作もこれを受けて、1964(昭和39)年1月に東京都千代田区神田司町に東京出張所を開設しました。所長の赤松恒廣取締役が陣頭指揮をとり、医療用品部門と工業用品部門から赴任した精鋭部隊が、東京へ乗り込むことになったのです。
東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されたこの年は、宇都宮製作にとっても節目となる年でした。
強敵の出現で
勃発した水枕戦争
東京出張所を開設して間もなく、東京を発振地とする時代の激動に襲われることになります。長年、最高級品として不動の地位を築いていたダンロップ枕でしたが、その地位を脅かす強敵が現れ、売れ行きに陰りが見え始めたのです。まず、東京の小島ゴム製作所が枕内中央部の上下を接着させて安定感を与えた「ベスト安定水枕」を開発し大ヒット。これは独自の安定化改良によって対策できたため、売れ行きへの影響は短期間で収められましたが、1965(昭和40)年に続いて現れた新型保冷具「アイスノン」は、水枕の時代を終わらせたかと思わせるほどに激震でした。一般家庭に冷蔵庫が普及する中、冷凍庫に入れておけばいつでも使える手軽さが大いに受け、一躍大ヒット商品となったのです。ダンロップ社の日本進出以来、積極的に広告や販売活動を行い、主力商品として取り扱ってきた宇都宮製作にとっても、この水枕戦争は決死の戦いでしたが、1967(昭和42)年になっても「アイスノン」の勢いは止まりません。そのうち他社から同様の商品が次々と発売され、水枕戦争は1970(昭和45)年頃にはピークを迎え、もはやこれまでかと思われた時、水枕の売れ行きが徐々に回復し始めたのです。天然ゴムの耐久性、放熱効果、心地よい冷たさや感触があらためて見直され、ダンロップ枕の販売実績は、1965(昭和40)年を100%とすると、翌年から59.8%、60.3%と低迷していましたが、1968(昭和43)年には85.3%、翌年92.8%と盛り返し、1970(昭和45)年には一気に128.8%と「アイスノン」の発売以前を大きく超えるまでになりました。この戦いで得たものは、時代の動きを読んだ商品開発の重要性と品質の高さは不変の支持を得るといった、宇都宮製作のコンセプトにも繋がる大きな教訓となったのです。
1965
昭和40年
芦屋に社員寮と倉庫を建設し、2,000万円に増資
芦屋市打出楠町43番地に社員寮と倉庫を建設し、その年に資本金を2,000万円に増資しました。
1967
昭和42年
第一回クイン会ご招待会開催
1960(昭和35)年に、宇都宮製作の「クインバンド」を取り扱う地方問屋の会として組織した「クイン会」ですが、その後も順調に拡大し、1967(昭和42)年3月に第一回クイン会ご招待会を和歌山県・白浜の「白浜御苑」で開催しました。
1970
昭和45年
化成品部の活動を停止
1953(昭和28)年に農業用ビニールシート「赤線ビニール」の取り扱いを契機に発足し、順調に発展してきた化成品部でしたが、メーカーの柴田ゴム工業の内部整理で樹脂部門が総合商社の傘下に入り、ビニールの取り扱いを終了したこと、また合成樹脂関の専門商社が多数生まれたことによって、宇都宮製作での役割を終え、活動停止することになりました。
1971
昭和46年
ユーザーの開発パートナー「直需部」の発足
日本の高度経済成長を背景として躍進した工業用品部の成功例は、開発の技術パートナーとしての営業活動を宇都宮製作にもたらし、1971(昭和46)年に最終ユーザーの要望に直接的に対応する「直需部」を発足しました。この年、資本金を3,000万円に増資し、宇都宮製作の成長気運はクライマックスを迎えます。
1972
昭和47年
ポータブルトイレ発売
高齢化社会の到来が社会問題として認知され始めた1972(昭和47)年に介護用排泄用品として開発された「ポータブルトイレ」の販売を開始し、介護分野へ進出し始めました。
オイルショックから始まった
最大の危機
1954(昭和29)年の年末から続いた日本の高度経済成長は、突如として吹き荒れた中東からの嵐によって終焉を迎えます。1972(昭和47)年の世界的な異常気象による農作物を中心とした物価の急上昇に端を発し、市場に品薄感が漂い始めた翌1973(昭和48)年10月、第4次中東戦争が勃発しました。この戦争によって原油価格が約4倍にまで高騰し、資源を持たない日本の産業界はパニックに陥りました。世に言われるオイルショックです。大混乱する市場では、トイレットペーパーが不足する等の噂が飛び交い、商品確保のために発注が殺到し、宇都宮製作もその対応に追われ爆発的な仮需が発生。当時の売上推移をはるかに超える30億円台の売上高を記録しました。しかし、この狂乱市況も翌年には落着きを取り戻し、先行きの不安感から、日本経済は一転して実質マイナス成長に陥りました。従来、景気の影響をさほど受けない医療用品業界も消費の沈滞と金融引き締めの煽りにより受注は急激に落ち込み、また好調だった工業用品界も大幅な減縮を余儀なくされたのです。
前年に売上高を大きく伸ばした宇都宮製作は、厳しい状況が予測される1974(昭和49)年度から事業の安定化をはかるため多角経営に乗り出しました。
1974
昭和49年
多角経営をめざし養鰻事業を開始
1971(昭和46)年に発足した環境庁は、水質汚濁防止のために工場関係の排水浄化を義務づけました。これによって全国各地の工場で「養鰻」がブームとなったのです。当時、多角経営をめざしていた宇都宮製作は、工業用品部で取り扱っていたFRPタンクに着目し、養鰻プラントの販売に乗り出しました。徳島県にプラントの展示場を開設し養鰻も行い、養鰻業者と共同で「日本栽培漁業株式会社」を設立したほどの力の入れようでした。決算期変更(5月20日→12月20日)
1975
昭和50年
時代の波を読んで医療用特殊ベッドを開発
さらに1975(昭和50)年には高齢化社会の到来という時代の波に乗ろうと医療用特殊ベッドを開発し、「宇都宮医療技研株式会社」を設立し販売を開始しました。またこの年に養鰻プラント販売のための「日本養殖開発株式会社」も子会社として設立しています。
1976
昭和51年
株式会社ダンロップホームプロダクツの設立
こういった経営多角化の試みも功を奏せず、業績は想像以上に落ち込み、1975(昭和50)年度には赤字決算に、翌年は若干プラスに転じたものの、翌1977(昭和52)年度には再び赤字決算となってしまいました。起死回生の新規事業として多額の投資を行い乗り出した「養鰻」と「ベッド」の2事業が本業の足を引っ張り、損失を広げている間に企業存続を窮地に陥れる大問題が発生しました。1975(昭和50)年1月に株式上場を果たした住友ゴムが、翌年2月に特品部門を分離独立させ「株式会社ダンロップホームプロダクツ」を設立し、総合代理店制から複数代理店制への移行を決定しました。これによって、宇都宮製作は1911(明治44)年から続いたダンロップ商品総合代理店の立場を失うと共に、業績基盤の3分の1を一度に失うという創業以来の危機に直面していたのです。さらに経営破綻の後に経営権を譲り受けていた京都の子会社への資金や人材の投入が奏功せず、結果的に損失を膨らせたまま他社に経営権譲渡することになり、傷を広げることになりました。
東大阪に配送センターを開設
この年、東大阪市本庄西1丁目74番地に配送センターを開設しました。
1978
昭和53年
戸田 保
赤松 恒廣
旧経営陣の引責辞任と
新経営陣の就任
創業以来の危機的状況の中で、宇都宮製作は社屋を売却する等で業績回復に向け奔走しましたが、1978(昭和53)年度に入っても事態は好転せず、多数の社員の退職を余儀なくされ、経営悪化の引責により宇都宮宏社長をはじめとする経営陣の退任へと事態は悪化しました。この経営不安に陥っていた宇都宮製作に支援の手を差し伸べてくれたのが、1933(昭和8)年からの取引先でゴム手袋メーカーの三興化学工業株式会社と、1954(昭和29)年の創業以来の取引関係にあった尚和化工株式会社の2社でした。1978(昭和53)年8月、旧経営陣退任後の新経営体制として、支援2社の強い要請によって、一度は宇都宮製作から籍を離れていた戸田保元社員と赤松恒廣元取締役が呼び戻される形で復帰し、戸田社長と赤松会長に就任しました。まさに背水の陣での再建への第一歩を踏み出したのです。この年、資本金を5,000万円に増資。
1979
昭和54年
経営再建へ向けて経営体制の刷新と本社の移転
苦境の中で就任した戸田保社長と赤松恒廣会長は経営体制を固めるため、1979(昭和54)年、支援していただいている三興化学工業の望戸剛四郎社長と尚和化工の田中明雄社長に取締役として経営陣に加わっていただきました。まず着手したのは副業の中止です。経営多角化を目論み乗り出した「養鰻」と「医療用特殊ベッド」の事業を取りやめ、その負債の整理のため、1957(昭和32)年に新築した本社社屋を売却せざるを得ませんでした。これに伴い、本社は大阪市東区淡路町2丁目34番地の第3エーシービルに移転し、営業部は、配送センターのあった東大阪市本庄西1丁目74番地に移転して再建へ向けての営業を開始することになりました。
1982
昭和57年
体質改善のための事業部制を導入
新体制で再スタートを切った宇都宮製作ですが、業績は低迷を続けて回復の兆しは見えません。元来、医療品市場は成熟期に入っており、もはやめざましい成長を期待することはできず、他業種からの参入も相次いでいるため、市場の動向に依存した再建は望めません。抜本的な体質改善が必要だと判断した経営陣は、現状維持を目標に地道な改革に取り組みました。まずは基本となる在庫管理です。経営多角化の負債整理で最も苦しめられたのが不良在庫。この苦い経験を活かし、在庫管理の改革を第一に実践しました。1982(昭和57)年に事業部制を導入し、従来の仕入部を廃止しました。本来の独立採算制をとる事業部制ではありませんが、各営業部門が自ら仕入れを行い、在庫に責任を持つことで不良在庫を減少させようというものです。これにより在庫管理は大きく改善され、営業活動も発想が広がり活性化し、再生の兆しが芽生えてきたのです。
予想外の救世主となったプラテの発売
雌伏して地道な体質改善に勤しむ宇都宮製作に、まったく予想外の救世主が現れました。1982(昭和57)年に台湾の鴻億實業からプラスチック手袋(プラテ)を輸入して販売を開始したのです。もともとは工業品を担当する社員が、研修に参加した際に貿易会社の社員との雑談の中で、ディッピング方式で簡易な使い捨て手袋の話を聞き、会社に報告したことから始まります。当初はアメリカから試験的に仕入れて販売してみたのですが、価格が高く、使い捨ての習慣に馴染みのなかった当時の日本では、ディスポーザブルの特長は理解されませんでした。ところが台湾の鴻億實業から低価格で仕入れられるようになったため、病院等にサンプルとして使ってもらうと意外と好評でしたので、さして大きな期待もせず「トーマプラスチック手袋」として商品ラインナップに加えてみたところ、院内感染防止や汚れ作業に最適と、徐々に需要が広がり、発売から2年余り経った1985(昭和60)年頃に感染症が話題になると、病院関係では用途に合わせて使い分けるようになり、急速に販売数は伸びて、医療機関以外の食品工場等でも採用されるようになりました。この予想外の大ヒット商品は、宇都宮製作の社内に漂っていた暗い空気を一掃し、躍進再開の狼煙となったのです。なお、「プラテ」という略称を使い始めたのは宇都宮製作だとされています。
1984
昭和59年
樹脂製切替コック「ツーウェイコック」を発売
一方、オイルショック以降、模索を続けていた工業用品部にも新しい光が差し込んできました。以前、団地向けバスシャワー装置「ゆあみ」を開発販売した際に、切替コックを樹脂製にした経験と、浄水器の完成品と鋳物製の水栓をセットでを販売した経験があり、この経験から従来鋳物製であった水流切替コックを樹脂製にすることで軽量化でき、生産性もアップすると考え研究を重ねました。1984(昭和59)年、樹脂製切替コック「ツーウェイコック」を発売。工業用品部としては久々のヒット商品の誕生でした。
1985
昭和60年
パウダーフリータイプの
プラスチックグローブを製造販売
あまりにも急激な伸長をみせるプラテの売上でしたが、衛生用品であるため厳しい品質管理が要求されます。また、用途の多様化は品揃えへの要求に直結するため、製品の改良、開発、そして品質の向上と管理は日進月歩で徹底しなければなりませんでした。そんなさ中の1985(昭和60)年に日本初となるクリーンルーム用のパウダーフリー手袋の製造に成功し発売しました。
1986
昭和61年
九州を新しい柱にする拠点として福岡営業所を開設
1927(昭和2)年に販売網を広げて以来、九州地方へは大阪の本社からの出張営業でした。しかし、同業他社が次々と九州へ支店を開設し始め、競争が激化してきた1986(昭和61)年1月、福岡市博多区山王1丁目に福岡営業所を開設しました。所長の他に営業員1名、事務1名という小所帯でのスタートでしたが、これによって地域密着度は格段に向上し、後に東京に次ぐ地方拠点の大きな柱となったのです。
食品の新商品
「シンガー電石帽」を販売
プラテのヒットは新しい市場分野への進出にも大きく貢献しました。プラテの納入を続けていた山崎製パンからさらなる衛生対策として、毛髪の落下防止についての相談を受けたことが発端で、電界効果を持つ不織布の作業用帽子の開発に取り組み、1986(昭和61)年に「シンガー電石帽」を発売しました。この商品をきっかけとして、マスクやエプロン等の開発が始まり、異物混入防止製品という新しい製品群を誕生させていくことになります。
1988
昭和63年
オイルショック以来の売上30億円達成
こうしたヒット商品によって、宇都宮製作の業績は明らかに改善し、1974(昭和49)年のオイルショックバブル以来、14年ぶりに総売上が30憶円を超えました。
1990
平成2年
大西 健路
戸田保社長の勇退と
大西健路新社長の就任
1990(平成2)年2月17日、危機に瀕していた宇都宮製作の再建を成し遂げた戸田保が社長を勇退し、大西健路取締役が後を受け継ぎ、社長に就任しました。1987年(昭和62)年11月に入社した大西健路新社長は、入社後すぐに社長室長として戸田保前社長を補佐して業務改革に取り組んでいました。42歳の新社長は、長い低迷期を脱したことに安堵することなく、さらなる改革に取り組んでいくことになります。
1991
平成3年
わずか3年で売上40億円に到達
戸田保の勇退から後を受け継いだ大西健路社長は、社員教育と諸規定の整備に取り組みました。幹部教育の実施に続き就業規則の改定を行い、期首に経営方針発表会を開催し、会社及び各部の目標と責任を明確化する意識改革にも着手。また報奨制度を設け、社員のやる気を引き起こしました。さらに人脈を活かしたトップ営業を土台として、従来の市場を多角的にとらえた拡販を推進。海外の人脈づくりにも積極的に取り組むことで、苦難の末、1988(昭和63)年に30憶円に達した売上額は、わずか3年後の1991(平成3)年には40億円を超えるほど伸長しました。
「社是」および「経営理念」を発表
〈杜是〉
我々は新しい価値の創造とサ一ビスで社会に
貢献する。
〈経営理念〉
一、創造
一、情熱
一、躍進
大西健路社長は、就任以来進めてきた制度改革の御旗として、1991(平成3)年1月12日に開催した「第57期経営方針発表会」において、創業以来88年目にして初めて「社是」と「経営理念」を発表しました。
切替コック「スリーウェイコック」を発売
1984(昭和59)年、樹脂製切替コック「ツーウェイコック」を発売し、順調に売り上げを伸ばしたのですが、すぐに他社が類似商品を発売したため、さらに新型の「スリーウェイコック」(平成3年特許取得)を開発し、再び市場をリードしました。その後、サントリー株式会社と共同でコック機構を組み込んだ浄水器を開発する等、宇都宮製作は浄水器業界で水流切替コックの確固たる市場を確保したのです。
1992
平成4年
業績回復により定期採用の実施
オイルショック以降の再建時には控えていた新規採用を、業績回復が見越せた1992(平成4)年に再開することができました。市況はバブル崩壊の最中でしたが、宇都宮製作には、いよいよ更なる躍進に向けての基礎固めができる機が訪れた年でした。
1995
平成7年
戦略的事業部制の導入
新たに本社、東京営業所、福岡営業所を横断する形で、5つの事業分野(医療用品事業部、産業用品事業部、工業用品事業部、技術部、管理事業部)を設定し、事業分野毎に戦略を明確化する事業部制を導入しました。
1996
平成8年
東大阪の本社新社屋が完成
1995(平成7)年1月17日早朝に淡路島と阪神地区を襲ったマグニチュード7.3の直下型大地震は、多くの人々や建造物に多大な被害を与え、関西圏の経済も途方もない損失を受けることになりました。「阪神淡路大震災」でした。宇都宮製作は、大阪本社、営業所、配送センターともに、震源地から離れていたため直接の被害は免れましたが、阪神間に在住の社員宅や取引先等は被災し、しばらくはお見舞いや支援に追われる日々が続きました。
その翌年、オイルショック後の危機の際に淡路町の本社ビルを売却し、大阪市内の本社と東大阪の大阪営業所に分離を余儀なくされていた宇都宮製作は、念願の本社社屋を東大阪市に建設することができました。
1996(平成8)年7月5日、新社屋で落成記念式典と披露パーティーを開催。本社売却以来、18年の歳月が流れており、往時を知るベテラン社員にとっては感慨無量でした。
新社章、新ロゴマークを制定
新社屋の完成を機に、宇都宮製作はCI(コーポレートアイデンティティ)を導入しました。
〈経営理念〉
創造 Creation 「人を守る」
原始の時代から、わたしたちは創造を繰り返して今日の生活へと築き上げた。わたしたちの創造力の源は「人を守る」愛のあふれた製品づくりにある。
情熱 Passion 「個と全体」」
ひとりひとりが人間愛を育むことで、全体性を確保する。わたしたちはこの一点にこそ情熱を傾け、自らの役割をまっとうする。
躍進 Progression 「利益の確保」
躍進には、企業として利益の確保が必要です。そして、この目的に対する日々の行動が、お客様の満足を通じて、社会貢献という大きな自信として生まれます。この自信こそが躍進の原動力です。
宇都宮製作が企業理念の中にも取り入れてきた「人間愛」を形にした新しいロゴマークは、人、愛、包む、触れるといつた複合的な意味と、杜名の頭文字である「U」の文字を象徴的にデザインしたものです。
品質管理室を新設
新社屋内に専任の担当者を置いた「品質管理室」を新設し、ギヤー老化試験機、引っ張り試験機、ピンホール試験機、投影機、比重計等の試験設備を備え、主に輸入品の品質管理の徹底を図りました。
1998
平成10年
決算期変更(12月20日→3月末日)
1999
平成11年
海外商品部を新設
海外商品開拓の強化のため「海外商品部」を新設し、その物流を円滑化にするために「南港物流センター」を開設する等、海外生産への取り組みを急進しました。
2000
平成12年
「株式会社暮らし生き活き社」を設立
2000(平成12)年4月1日の介護保険法施行に先立ち、3月4日に介護用品を扱う「株式会社暮らし生き活き社」を設立しました。1972(昭和47)年にアロン化成が開発したポータブルトイレを取り扱って以来、30年近い年月が流れましたが、その間に蓄積されていた営業基盤がこの機に開花したものでした。
2003
平成15年
創業100周年記念式典を開催
1903(明治36)年の創業より100年の節目を迎えた2003(平成15)年10月10日、宇都宮製作は創業100周年記念式典と記念祝賀会を開催、来賓として大阪医療品卸商組合の藤本久雄組合長(ピップフジモト株式会社 会長)をはじめ、三興化学工業株式会社 望戸清彦社長、ショーワ(旧尚和化工)株式会社 三裏泰紀社長、上海翔茂企業股份有限公司(鴻億實業)李茂盛董事長等、多くの方々に御列席いただきました。
2004
平成16年
ISO14001を取得
100周年事業の一環として、「環境マネジメントシステム」の構築を全社目標として、ISO14001の承認取得に取り組み、2004(平成16)年3月8日に本社並び東京、福岡の各営業所で認証を取得しました。
「暮らし生き活き社」
東京営業所の開設
2000(平成12)年の設立以来、4年目を迎えた「株式会社暮らし生き活き社」は、さらなる販路拡大のため東京営業所を設立しました。この年、前年比130%と順調な成長過程を歩んでおり、社員の増員、物流のアウトソーシング化と着実に事業基盤も整えつつありました。
大西健路社長大阪府知事表彰 受章
この年、西部工業用ゴム製品卸商業組合の副理事長に就任した、大西健路社長の業界発展の貢献が認められ大阪府知事表彰を受章しました。
2005
平成17年
ISO9001を取得
社会的需要が高まり、得意先との取引において必要に迫られた背景もありましたが、職場環境や品質の継続的改善の要素を取り入れて品質マネジメントシステムの構築をめざし、前年のISO14001認証取得に続いて、ISO9001の認証を取得しました。
2006
平成18年
東京営業所を東京支店に改称
業務の拡大に伴い東京営業所を中央区日本橋大伝馬町に移転し、東京支店に改称しました。また、この年、大阪中小企業投資育成株式会社の投資により、資本金を9,000万円に増資しました。
2008
平成20年
赤松恒廣会長逝去
創業以来の危機的状況に陥った1978(昭和53)年に会長に就任し、苦難の再建、そして躍進期を支え続けてきた赤松恒廣会長が逝去しました。お別れの会では、数百の得意先や仕入先、関係各所から、非常に多くの方々が参列され、別れを惜しまれました。
2009
平成21年
福岡営業所を福岡支店に改称
1986(昭和61)年の設立から20余年、売上の増加に伴い福岡営業所を福岡支店に改称しました。
暮らし生き活き社を統合
2000(平成12)年に設立した「株式会社暮らし生き活き社」を業務の効率化をはかるため統合しました。
宇都宮ホールディングス設立
将来的に品質管理や物流部門を担う宇都宮ホールディングスを、宇都宮製作の持株会社として設立しました。
2010
平成22年
商品事業部発足
1982(昭和57)年からスタートした事業部制において、各事業部ごとに、自分達で仕入れ、自分達で販売をしてきましたが、事業部共通で販売する商品も増えラインナップも多くなってきたことから、会社に横串をさし、一括コントロールする商品事業部を発足させました。
福岡支店を移転
福岡の拠点とした福岡県博多区山王の社屋は駅から程遠く、バスを利用する必要もあったため、福岡支店を博多駅に近く利便性に優れた福岡市博多区博多駅東に移転しました。これにより、得意先への細やかな営業活動が可能になりました。
2011
平成23年
物流センターを廃止し、
外部倉庫を完全アウトソース化
2013
平成25年
売上100億円達成
2011(平成23)年に「100億円企業になる為に!」とスタートした3ヶ年計画が実を結び、1903(明治36)年の創業より110周年を迎える節目の年に、売上100億円を達成しました。
創業110周年記念式典を開催
2013(平成25)年4月6日、創業110周年記念式典を開催しました。式典には、宇都宮製作のOBや社員の家族など多くの人が参加し、社員による余興や子ども達が参加するビンゴ大会などが行われ、アットホームな雰囲気の中、大いに盛り上がりを見せました。またこの年、110周年ブランドプロジェクト等の宇都宮製作の企業ブランドを社内外に訴求する様々な取り組みを実施しました。
『まもる』を製る!制定
110周年に際して、ブランド戦略推進を開始し、各事業部のコンセプトメッセージ、そして宇都宮製作のブランドメッセージを掲げました。
2014
平成26年
ISO9001にISO14001を発展的統合
2004(平成16)年のISO14001取得から10年以上が経ち、環境に対する取り組みも品質活動のひとつだと考え、ISO14001の内容を盛り込んだ形でISO9001を運用開始しました。
2015
平成27年
新ブランド「プロプラス」シリーズ販売開始
「Pro+(プロプラス)」とは創業110周年を機に掲げた新ブランドです。ブランドメッセージである『まもる』を製る!を具現化するため、価値や体験をお客様に提供することによって、お客様の課題解決支援を行う付加価値型の商品・サービスを発信するブランドです。
2017
平成29年
新たにISO13485を取得
宇都宮製作の中心事業である医療機器の安全性と品質への約束を強化するため、ISO13485:2016を新たに認証取得しました。
また、自主基準BECIQを制定し、ISO9001を統合しました。
本社を谷町ビルに移転
2017(平成28)年2月18日に、本社を大阪市中央区谷町2丁目の谷町ビルに移転し、旧本社を「東大阪ものづくりセンター」に改称しました。 新社屋では「オープンフラット」と「働きやすい環境」をテーマとし、宇都宮製作初となるフリーアドレスとコミュニケーションエリアの設置、什器の安全配慮など様々な取り組みを実施、あわせて東京支店やものづくりセンターの改装なども行いました。
2019
平成31年/
令和元年
大西健路が会長就任し、大西浩太郎が6代社長就任
1990(平成2)年の社長就任以来、宇都宮製作を年商100億企業に躍進させた 大西健路が会長に就任し、6代社長として大西浩太郎が就任、歴史ある宇都宮製作の伝統を守り、発展させていく「温故知新」「守破離」の精神で、時間活用の見直しやSDGsへの取り組みなどに着手し始めました。
主な取り組み
- ・第二種 医療機器製造販売業許可
- ・BCP(事業継続計画)対策
- ・SFA(営業支援)等のシステム化
- ・SDGsの推進
大西 浩太郎
健康宣言発表
健康宣言
宇都宮製作株式会社は、社員一人ひとりが心身ともに健康で生き活きと働けることが、会社の健康であると考え、「健康管理」や「健康維持・増進」、「働きがいのある環境づくり」に企業全体で取り組んでまいります。
2019年10月
2020
令和2年
環境宣言発表
環境宣言
宇都宮製作株式会社は「新しい価値の創造とサービスで社会に貢献する」という会社理念を掲げる企業として環境問題に対して積極的に取り組むことをここに宣言します。2030年までに当社製品を全て環境配慮製品にするべく取り組んでまいります。
2020年1月
健康優良法人認定
健康経営への取り組みが認められ、「健康経営優良法人(中小規模法人部門)」として認定を受けました。
経済産業大臣より感謝状を授与
新型コロナウィルス感染症の流行に際して、医療物資を増産した取組みが認められ、経済産業大臣より感謝状を授与されました。
2021
令和3年
宇都宮製作史料館 開館
2022
令和4年
人権宣言発表
人権宣言
宇都宮製作株式会社は、「まもるを製る!」をブランドメッセージを掲げる当社は、人と環境をまもる製品とサービスを開発・提供し続けることを未来に約束しております。
私たちは事業を行う上で、直接的または間接的に人権に影響を及ぼす可能性があることを認識した上で、ビジネスに関るすべての人権を尊重するために、「ウツノミヤ人権方針」をここに定め、人権尊重の取り組みを推進してまいります。
2022年1月
社労士診断認証制度認定
「人を大切にする企業」、「働きやすい職場」である事が認められ、社労士診断認証制度の認定を受けました。
宇都宮製作が所蔵していた、
日本の医療・衛生用品、ゴム製品の歴史とも言われる資料を一堂に集め、
先人たちの技、ものづくりの志を後世に伝えるために、
2021年に宇都宮製作史料館を開館しました。
展示品の一例
宇都宮製作のあゆみ
アニメーション映像
創業から現在に至るまでの宇都宮製作のあゆみをアニメーション映像で振り返ります。
創業期の時代背景や移り変わりをわかりやすく3分程度にまとめていますので、
気軽にお楽しみいただけます。
〒578-0965
大阪府東大阪市本庄西1丁目5番1号
宇都宮製作株式会社 東大阪ものづくりセンター内
TEL:06-6746-2337 FAX:06-6744-7799
休館日:土・日・祝日
開館時間:10時〜17時 ★要予約
※一般の方のご来館は受け付けておりません。ご来館をご希望の際は当社担当者までお問い合わせください。